沼地のある森を抜けて/梨木果歩レビュー

すべては緩やかに一つ

昨年、「西の魔女が死んだ」が映画化され、注目を浴びた梨木果歩の長編小説です。

梨木果歩らしい、慈愛に満ちた視線でみる壮大な生命の世界が、「ぬかどこ」から始まります。
読んだ後にこれまでと違った世界が見えるかも知れない一冊。

沼地のある森を抜けて (新潮文庫)


生命の由来に思いを馳せるこの物語の発端は「ぬかどこ」です。

かつては多くの家庭に「ぬかどこ」があったと思いますが、この「ぬかどこ」というのは考えてみれば、実に不思議な存在です。

「ぬかどこ」は乳酸菌と酵母菌という生命が中で働いて機能するものですが、酵母菌が好気性であるために毎日新鮮な酸素を入れてやる必要があり、非常に手のかかるある種の“生物”のようなものです。

各「ぬかどこ」はもととなる米ぬかの違いや、酵母菌、乳酸菌が絶えず活動することから、ひとつひとつが進化をしつづけるオリジナルです。そのためオリジナルから派生した「ぬかどこ」は独自の変化を遂げ、元の「ぬかどこ」に対し、親子関係が生じます。そうして系統というものが生まれ、“先祖”伝来の「ぬかどこ」と表現されたりするわけです。

また「ぬかどこ」は漬けられた野菜に対して働きかけ、新たに「漬物」という食物を生み出してくれる“魔法の箱”でもあります。

私の実家には「ぬかどこ」はありませんでしたから、実感としては分かりませんが、こうして特徴を挙げてみると、家庭における「ぬかどこ」という存在は家具でも道具でもペットでもない、また別のポジションにあるものと思われます。特にその手入れを任されている、その家の主婦にとっては、他の家族とはまるっきり違う感覚で「ぬかどこ」を捉えているに違いありません。

この奇妙な存在「ぬかどこ」から始まるという切り口は、男性からはあり得ないでしょう。生活に根ざしたものでもある「ぬかどこ」から始まる物語は、ヒロインの久美が自らの肉親、親類、先祖たちの謎に迫りながら、生命の複雑さ、不思議さへ言及し、次第に生命の奥に眠る深遠たるビジョンを描き出していきます。

Wikipediaによると生命の定義は以下のようになっています。

・外界および細胞内を明確に区別する単位膜系を有する。
・自己を複製する能力を有する。
・外界から物質を取り込み、それを代謝する系を有する。

物質と生命の境界線となるこの3つの条件を備えた、全生命の原初となるたった一つの細胞から、現世界に生きる多種多様な生命はスタートしています。ヒト、動物、植物や微生物、菌類、単細胞生物などありとあらゆるスケールの中に広がる生命は、幾星霜もの年月をかけてここまで分化してきました。

そこにはそれこそ無限の分かれ道がある訳ですが、この本のテーマとなっているのはまさにこの生命の分化の途です。

分化の歴史の中で起きた数々の重大な分岐、そして生命の分化の究極の目的とは何なのか。

3つの条件からなる生命の定義をトレースするかのように、作者はもうひとつのファンタジーのような挿話をこの作品に組み込んでいます。

挿話が終わりを迎え、本編のクライマックスに至って現れてくる、生命の偉大な勇気を発見したとき、作者の「ぬかどこ」を見る視線の鋭さと深さに感嘆してしまいます。

しかしその視線の何と柔らかなことか。梨木果歩という作家に見えている世界は、とてつもなく大きな慈愛な満ちた世界に感じられます。そしてその世界が、我々が生きているこの世界と同じだということはまた、我々の世界も慈愛に満ちたものなのかも知れません。

評価<spacerspacerspacerspacerspacer


この本が好きになった方は、是非、大友克宏の「アキラ」も読んでみてください。
「沼地のある森を抜けて」同様、或いはそれ以上の世界を提供してくれるかも知れません。

また粘菌については昨年書いた「単細胞だって迷路ぐらい解ける」というエントリーを思い出しました。

>>生命の起源@Wikipedia

梨木果歩@Amazon

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